昨日、愛子さまが学習院女子中等科をご卒業された。おめでとうございます。
ご卒業にあたり、記念文集に「世界の平和を願って」と題された作文を寄せられている。
内容は、僭越ながら趣旨をまとめれば、あたりまえの日常的な平和や自由があたりまえではないとお感じになられるようなり、この意識変化のきっかけは広島訪問によって戦時中に思いを馳せたからであるというものである。文末には、核なき世界への志向もされておられる。
この作文の核心部分は、以下であろう。このように綴られている。
「何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。」
もちろん、戦時中に思いをいたせば、我々個人にとっての「青い空」という日常があたりまえではないという主題がそこにはある。
これに加えて、この「青い空」について、愛子さまの意識にあるかどうかはわからないが、今一つの文脈を指摘したい。
すなわち、憲法及び立憲秩序の「飛び地=皇室」から見た空も、その秩序内にいる我々が見る空も、同じ「青い空」なはずである。しかし、ここには、これがあたりまえのようで当たり前ではないのだ、という文脈における、現代日本の自由及び統治構造が抱える諸問題への投げかけである。
「自由」という視点から考えたとき、皇族の方々は一般的市民が享受しうる自由を著しく制限されている。それは、美智子皇后から、雅子さま及び愛子さまの三代にわたって、「皇族」であられることでおかれている、内外からのその人格的重圧という非常に困難な環境ゆえに、過度な精神的負荷がかかっていることは明らかである。心身への影響も、三代続けて問題視されるべき状況にある。
この度、この作文が公表され、いわゆるリベラルや立憲主義等を「大切である」と標榜しているような人々(ここでは批判的意味をこめて「立憲主義者」と呼ぶ)から、作文の内容を称賛するような言説が散見された。「平和」や「核廃絶」に言及していることも原因であろう。
しかし、彼らから、愛子さまの「自由の現況」についての憂いや、皇室制度そのものへの考察、ひいては、それを含めた現在そして将来にわたる日本型立憲秩序への言説は、一切聞かれない。
その理由は単純で、愛子さまの作文の内容が、彼らの主張にとって親和的である限りにおいて援用しているからにほかならない。だからこそ、その作文を書かれた本人の「自由の現況」や、日本型立憲主義の核にある皇室制度については、言及がない。現代社会における皇室制度をどのように考えるのか、存続させるべきか否かも含め、これについての意見表明も自由にすればいいではないか。その中で、市民的自由が著しく制限された皇室制度における皇族の方々の自由について、いかに考えていくのかということに触れるべきであろう。
同じ日本国に存在する自然人でありながら自由を制限されつつも日本型統治機構を実質的に支えている皇室制度という日本型の権威と権力の関係等、立憲主義及び憲法秩序について真にコミットするならば、現代日本及び憲法秩序における自由及び統治の根幹でもある皇室制度の在り方と、皇族の方々の「自由の現況」について言及すべきである。立憲主義の核心は個人の自律であり、「自由」であるにもかかわらず、そこには言及しない。これは、まさに、「自由」や「立憲主義」のご都合主義的な援用であり、ダブルスタンダードである。
私は、譲位問題を含め、皇室制度の在り方をめぐる近年の議論状況に触れ、立憲主義やリベラルを標ぼうする人間にとって、「立憲主義」は片面的なイデオロギーでしかない、という思いをより一層強くすることになった。
その思いをさらに強くさせたのが、この愛子さまの作文をめぐる、人々の様々な言説である。
これはご譲位についての議論状況とも密接に関連している。今上陛下のお考えがリベラルであったり立憲主義についての深いご考察については賛意を表明することのある「立憲主義者」たちは、陛下ご自身の譲位問題について、陛下のお気持ちを叶えるための方策はおろか、ほぼ一切発言をすることすらなかった。皇族の方々を、立憲主義や憲法秩序の枠内と「飛び地」その間でご都合主義的に行き来させているのは誰か。
立憲主義やリベラリズムは、本来厳しい自己批判と自己吟味を我々に課すはずである。
愛子さま(皇族の方々)が見る「青い空」と、我々個人が見る「青い空」は、本来は同じである。しかし、それがあたりまえのようであってあたりまえではない、という命題が突き付けるこの国の「自由の現況」について、片面的・ご都合主義的な思想的態度ではなく、真正面から向き合わねばならないのではないだろうか。
共謀罪についても同じである。テロの脅威や安全・安心を語る言説には、監視や拘束の対象となる人間の自由と自分の自由はまるで別物のように扱う感覚がある。自由にはアプリオリに制限されてもよい二級の自由など存在しない。ここに欠如しているのは、自分が常に他者の立場と入れ替わるかもしれない、そして、入れ替わったとしてもそれを受容できるのかという視点である。
これからの社会を語り、そして生きていくために、我々の社会という同一平面上に広がる自由を遮断したり分断しようとする権力や自己欺瞞から解き放たれた、逞しい自由論の再生なくして、この社会の再生もない。
この社会の誰もが同じ「青い空」を見ているはずだ、というあたりまえのことをあたりまえに共有できる社会を築こうではないか。